京急グループ120年のあゆみ

京浜急行電鉄株式会社総務部総務課 飯島学さんの体験談をうかがいました。

会社概要と沿革をお聞かせください…

京浜急行電鉄株式会社は、東京・城南で鉄道会社を粛々とやっている会社です。一般的に大手私鉄と呼ばれる企業の一つですが、どちらかというと知名度は低いのではないかと思います。

その一方で、歴史は120年と長く、関東の私鉄では電気鉄道として現存最古です。当社は京都市電、名古屋電気鉄道に続き、電気鉄道会社では全国3番目となる大師電気鉄道としてスタートしました。

当社120年の歴史は八つ(創業期、形成期、拡張期、統合期、増強期、発展期、飛躍期、現代)に分けることができます。まず電気が珍しかった時代に、果敢にも電気鉄道を興したベンチャー企業からスタートします。しかし、日本で初めて開通した蒸気機関車と並走する東京~横浜間にあるため、生まれながらにライバルが存在する事業者として、沿線の基盤を固めていくことになりました。

戦時中は鉄道各社と合併して時代を乗り切り、戦後には分離して総合サービス事業者へとグループを展開してきました。現在は走行営業距離87㎞の鉄道事業をはじめ、不動産、流通事業などを行っています。

当社は平成30年(2018年)2月に創立120年を迎えました。さまざまな記念事業を展開しましたが、社史編纂もその一環でした。

また、当社は電気鉄道の古い歴史を先人から引き継いでいますが、社史編纂の面でも歴史を古くからつないできました。当社最古の社史としては明治35年(1902年)に40頁の『京浜電気鉄道沿革』を、昭和24年(1949年)には京急史上初めての正史(通史)となる『京浜電気鉄道沿革史』を発行しています。

その後、昭和33年(1958年)、同43年(1968年)と10年刻みでダイジェスト版とも呼べる周年史を発行し、80周年を迎えた昭和54年(1979年)には、当社では最大規模の正史となる『京浜急行八十年史』を発行しています。『八十年史』は外部有識者の故・中川浩一先生に監修をお願いし、各方面から評価をいただきましたし、現在でもわれわれが活用しているものです。

昭和63年(1988年)の90周年では、バブル絶頂期ということもあり、豪華な装丁で写真史を発行しています。

平成10年(1998年)には100周年を迎えますが、ここでは『京浜急行百年史』を正史として取りまとめています。平成20年(2008年)の110周年の際には、羽田空港につながる当社の主力路線である空港線の展望を含め、10年間分をまとめています。

編纂体制と経過について…

当社においては、こうした社史編纂の歴史的経緯、また行政や関係部署との折衝などで役立つということもあり、社史に対する期待感は上層部へいけばいくほど高くなる状況がありました。また、10年刻みで社史をつくり続けてきた思いをないがしろにできない切迫感とでも言うべきものがありました。

他方で、現在はグループ会社に事業が細分化されてきており、当社がいつから創業し、どのような歴史を刻んできたのかという歴史観がグループ会社では浅くなりつつあります。若年層では「会社に詳しい、愛社心=ブラック企業」という図式に思われたり、インターネットの時代に「社史をつくるより、ほかに予算をかけるべきでは?」との感覚があったり、さらには専従の担当を置く余裕がなかったりという状況も社内に垣間見えます。

120年史編纂について、検討の当初を振り返ると、まず正史をつくる体制の確保は難しいものの、次の正史発行を見据えて直近10年間はまとめる必要があること、また「昔」と「今」だけではなく、将来構想や長期ビジョンを含めた未来志向にすること、120周年記念の最大事業である本社の横浜移転について記載すること、そして専従担当者は置くことができないことが大枠としてありました。

そして、さまざまな思いがある中で、120年史発行の2年前から計画が進み出し、1年半前にようやく骨子がまとまることになりました。

編集方針としては「未来に至る流れを立体的に表現」「見やすく読みやすい年史」「客観的な歴史年表」を基本コンセプトに掲げました。そのもとで、今回は写真レポートとともに部門別に直近10年を記述し、横浜を中心とした沿線発展史を紹介しました。さらに京急グループ総合経営計画に基づく将来構想、120年の歴史を通観できる略史を載せました。

略史については、先ほどお話ししたように、グループ各社に事業が分散しているので、この120年で京急グループがどういう歴史を経て現在に至るのかを視覚的に分かりやすい「京急グループ120年のあゆみ」として見開き頁でまとめました。これは正史をつくれなくとも、ある程度のダイジェスト版をつくった上で、さらにそのダイジェストページとなるものをという意図で作成しました。

A3見開きでコピーを取れば120年の資料となり、社員であろうが、アルバイトであろうが歴史的な流れが見れば分かるようにしています。ここで掲載している写真は版権関係も整理し、コピーされても問題ないものだけを集めて掲載しています。

なお、当社では120周年記念事業として、2019年9月に東京・泉岳寺にある本社を、沿線の中心である横浜に新築移転する業務を行っています。私は現在、この移転業務における建築関係の仕事を担当しております。

なぜ建築の人間が社史の仕事をしていたのかというと、本社ビルに京急ミュージアムを併設する予定で、ここで歴史を扱うこと、専従担当者は置けないこともあり、私が担当することになりました。ミュージアムの整備に関しては、トッパングループの株式会社トータルメディア開発研究所に依頼しているところです。

具体的な編纂のポイントは…

社史編纂は社内手続きなども含め大変なパワーが必要ですが、その進め方には王道とも言えるものがあり、それ以外はないのではないかと思うぐらいです。

その中で、本当に大事なのは基礎年表の作成だと思います。社史をつくることが決まっているのであれば、明日からでも着手することをおすすめします。

また、今だからこそ言える「社史あるある」について少しお話しさせていただきたいと思います。

その1が「編集とのリレーション」です。これは表紙デザインについて、編集サイドとのやりとりが半年以上続いたという話です。当社としては「京急グループのDNA」「未来への挑戦」を伝えるという発行の目的や、「品川・羽田を玄関口に豊かな沿線の実現」「従来のイメージから変わることを意識」「新本社へ移転」等々のイメージを具現化した表紙を提案してくださいとお願いしました。さらに検討を進めていく中で「箱から音が出ませんか?」「箱を開けると電車のドアが開くようにできませんか?」などといった注文を、いわば勝手気ままに出しました。

これについては、かなり無理があり、実際に編集の方からお話を伺ったわけではありませんが、「注文が多すぎる! まとめてくれ!」と思われていたはずです。そうは思いながらも、当社サイドでは同業他社の社史デザインや別業界の社史を参考に検討していき、どこに向かっているのか分からなくなる状況でした。

トッパン年史センターには、これに追従していただき、あらゆる提案をいただきましたが、結局のところは発注側がどういうものをつくりたいのかを形にして伝えていかなければ、お互いの手間と労力だけが掛かると思いました。

ただ、分からないものは分からないので、8カ月間やりとりを続けましたが、最終的には二つの提案を組み合わせたものを答えとして、模型でグループ会社が集う様を再現する、というベストな案を提案していただきました。

その2は「会長、社長の意向」です。一般的な決裁のステップは、企画をまとめて起案、上層部に上げるのが普通です。ただ、社史に関しては上層部の意見が大きく反映され、方向性が決まる部分があるように思います。

社史にどのような内容が求められているのかを、普段の発言から翻訳していくことが必要でした。例えば、「標準軌を日本で初めて導入したのは英断である」というグループ報の社長巻頭言をはじめ、「本社を移す横浜の地は、当社沿線の骨格の形成地である」「羽田、横浜を玄関口として、沿線を活性化しなければならない」「京急をかたちづくってきたのは人である」といった発言についてです。また、秘書課経由で「あれは何年の出来事だったっけ? これで合っている?」といった問い合わせも繰り返されました。

こうしたものを翻訳し、編集内容に盛り込んで作業を積み重ねていくことで、決裁のタイミングで当たらずとも遠からずという結果が得られました。

続いて、その3「まさかの組織改編と人事異動」ですが、これは私が非常に困った話です。当社の『八十年史』は総務部の総務課、『90年史』は広報課、『百年史』も引き続き広報課が担当し、『110年史』では総務課が担当しました。今回については、私が編集をスタートした際は広報課でしたが、その後総務課に移ったにもかかわらず予算は広報課に残ったままで、さらに組織改編に伴い広報課が部として独立してしまい、私はもう一度予算取りから孤軍奮闘することになりました。社史編纂の組織づくりは早めに、しっかりしていただくとよいと思います。

その4が「掛け持ち業務といううしろめたさ」です。別の業務がありながら、編集作業をするのは社内的にうしろめたさがあり、専従でやりたいと感じましたし、専従担当者が必要だと思います。

また「会社の歴史である社史を知るには社史が一番だが、社史という書籍を知るのにも社史が一番」ということです。当然、会社の歴史は社史に詳しく記されていますが、社史というものをつくる際に、社史がどんなものか、どんな編成なのか、どんな特徴があるのか、表紙のデザインはどのようなものかなど、あらゆるものを知るには結局ほかの会社の社史が一番役に立つということです。これには、偶然にも沿線にあった、神奈川県立川崎図書館様の収蔵資料が大変役に立ちました。

編纂を終えての感想は…

現在、会社の過去の出来事などを社員が調べるときに、どんな調べ方をしているのかを考えてみますと、まずインターネットで検索し、ウィキペディアに載っている京浜急行電鉄株式会社の記載などを見ると思います。ものは試しに、違う部署の部下に質問してみると、その返答がウィキペディアそのままでした。これが現代ではないでしょうか。

次のステップとしては、パソコンの社内ネットワークの中の共有フォルダーを調べてデータを引き出すことが考えられます。そして、最後に書籍資料を探したり先輩などにヒアリングしたりというステップへと移るのだと思います。

必ず「あのデータはどこにあった?」「あの資料はどこ?」「このデータで合っているの?」「あれっていつだった?」というシーンはあります。ただ、検索優先の時代において、私はいつも「社員はインターネットの情報で資料をつくっていませんか? その外部資料の情報は本当に合っていますか?」という疑問を持たずにはいられません。検索優先の時代になろうが、会社として公式の記録をつくっておかなければ、自らの歴史が外部の記録に委ねられてしまうというおそれを今回強く感じました。

ウィキペディアの精度が上がってくれれば社史はいらないという視点も、社内のあらゆるデータが横断的に検索できるシステムさえつくれば社史をまとめなくてもいいのではないかという考え方もあるかもしれません。しかし、社内資料は重複しているかもしれませんし、見解も違うかもしれません。何よりも、これらは基本的に第三者に開示されない情報です。

当社は鉄道事業を行っていますが、その事業を行う従業員数よりも、沿線をご利用いただいている乗客数が圧倒的に多く、その方々の当社に対する理解が深まることがない限り、当社はやっていけない時代にきていると思っています。われわれの会社がどういう会社なのかを、きちんと知っていただくためには、外部に出ている資料だけではなくて、われわれが持っている内部資料をしっかりまとめ、外部の人も見られるようにしなければ、われわれの評価も曖昧になると感じています。事実は違うのに外部の人が記していることが、会社の評価を下げる可能性もあります。いろいろな情報を集め、まとめ、開示して初めて企業は社会に貢献できるのではないかと考えます。

CSRやESGの分野かもしれませんが、われわれが社会でどういう役割を果たしているのかということをしっかり社史の中に入れていかないと、社会と共存できないのではないか、と社史編纂を終えて感じました。

社史編纂のモチベーションが変わる日は近いかもしれません。しかし、社史が必要なくなることは決してなく、社史編纂は重要な仕事だなと改めて感じるところです。