博報堂120年史

株式会社博報堂広報室室長 寺島二郎さんからお話をうかがいました。

会社概要をお聞かせください…

博報堂の創業は1895年10月6日で、2015年10月6日に創業120周年を迎えました。株式会社になったのは1924年ですが、今回制作したのは会社創立前からの通史です。現在の社員数は約3300人、社長は戸田裕一で、創業から数えると第10代になります。現在の本社は赤坂にあります。

博報堂は2003年10月に大広・読売広告社と経営統合し、博報堂DYホールディングスという持株会社をつくり、その持株会社の100%子会社になりました。また2003年の年末に博報堂、大広、読売広告社のメディア部門を分離し、博報堂DYメディアパートナーズを設立しました。元の博報堂から持株会社へ移った社員、メディア部門は博報堂DYメディアパートナーズへ移り、その残りが今の博報堂です。

会社の沿革は…

1895年、明治時代に神田区鍋町(今の日本橋の近く)に教育雑誌の広告取次業、雑誌広告取次所博報堂を創業しました。創業日には二つの説があります。1895年10月6日は日曜日でした。「創業だから月曜日だろう」と言った人がいるらしく、一時は創業が1895年10月7日の月曜日となっていました。創業者1人で始めたのだから、月曜日も日曜日もないので、一番昔の記録にあった1895年10月6日にしようということで、めでたく120年目に創業日を確定させました。

私どもは今赤坂にいますが、1995年以前の本社は神田錦町にありました。神田錦町の旧本社は1930年に建設されたもので、ニコライ堂などを建てた岡田信一郎さんという著名な建築家に設計していただいた建物です。神田錦町の旧本社はかなり老朽化が進んだので2010年に取り壊しました。そこからいろいろな資料が出てきたことが、社史を作ろうという流れにもつながっています。そのビルは2015年、120周年の春にジョイントベンチャーでテラススクエアという新しいビルに建て替わりました。いろいろな方々から神田のシンボルであった博報堂旧本社を残してほしいという強い要望をいただき、千代田区からもぜひということで、新しいビルのファサードに旧本社を復元しました。120周年の春に竣工したこともよい区切りだったと思います。

120年史の構成は…

まず博報堂の120年を四つの時代に区分し、通史を編纂することとしました。教育雑誌の広告取次から始まったのですが、最初の60年間はほとんどが出版広告で、創業家の家族的な経営でした。

1959年から急速にテレビが広まり、広告業界も大きく変わりました。GATTで海外から日本にいろいろなものが流れ込んでくるようになり、日本に新しい文化、特にアメリカの文化が入ってきました。社員も増えて経営の近代化も始まりました。

次の時代が1981~1994年です。日本の経済成長、生活文化の進展に寄り添って会社は大きくなりました。1970年代後半には、日本人は物質的な満足よりも精神的な満足を求めるようになりました。高度成長期のなかでひととおりのモノを手に入れ、次は心の満足を求めるという時代になったのです。博報堂が生活総合研究所というシンクタンクをつくり、生活者発想を掲げ、業界1位の会社と異なる路線を歩み始めた時代です。

最後はバブル崩壊後から現在に至る20年間、低成長下の苦労の歴史です。

120年史の仕様は…

編纂した制作物は、「贈呈版(正史)」と「ペーパーバック版」の2種類です。贈呈版は、函入の本編・資料編・仕事編の3分冊から成るもので、特注の袋に入れ、担当者が得意先・取引先のトップにお届けいたしました。本編は博報堂の歴史を紹介したもので約500ページ。資料編が約160ページ。仕事編は約80ページです。仕事編に掲載した広告については、得意先さま、タレントさんはもとより、亡くなっている方はご子息やお孫さん、作詞家、作曲家、カメラマンと、あらゆる関係者を追いかけて、ご了承いただいたものを掲載しました。仕事編は皆作りたかったのですが、一つひとつに非常にたくさんの権利が入っているので、途方もない手間暇がかかりました。

この贈呈版の装幀用布クロスは、特注制作しています。「できるだけ多くの社員が参加できるような仕組みをつくろう」ということで、120年に向けた社員のメッセージを集めて、約1800人のメッセージのすべてを点字にし、織り込んだ布で装幀をしました。

「ペーパーバック版」は1万5000部作りました。通史は、普通は読まれない記念品ですが、手にとって手軽に読んでいただけるものも作ろうと思い、博報堂のOBの逢坂剛先生ら、名の知られた人たちに「自分が知っている博報堂の楽しかったことを書いてください」と、実際に楽しく書いていただきました。

具体的な編纂のポイントは…

私どもにとって初めての編纂でしたので始める前にいくつかの決めごとを作りました。

一つ目です。みんなが社史と言いますが、「通史」と位置づけました。

二つ目です。過去の事実を記述する際には主観が入ります。主観によって過去の事実に評価が入り、それにより記述が変わります。その出来事が博報堂の歴史のなかでどのような意義を持つのかを決めないといけないのですが、大人数で合議したら決めるのは大変ですので、少人数で決めてもらうようにしました。通史とは、通史を作ると決めたときのトップの歴史観でつくるということを事前に確認できたことが、作業を進めるうえで一番大事だったと思います。

三つ目です。外部に支障のないものは不祥事を含めて、率直に、客観的に記述することにしました。

四つ目です。仰々しいもの、時代がかった言葉づかいはやめることにし、謙虚に、淡々と、客観的に記述することにしました。

五つ目です。受け取っていただいたときの印象が大事ですので、博報堂を代表するデザイナーに「端正なもの」を依頼しました。広告会社ですが、見た目を端正なものにし、実は「社員1800人のメッセージを点字にして織り込んでいる」というエピソードを付加しました。

六つ目です。私どもは広告会社で、設備、製品がありませんので、人、社員の匂いが伝わるようにしました。本文では採り上げにくくても、欠かせない人物はコラムで紹介しました。

七つ目です。バブル崩壊後、最近20年間は評価が難しく、直近の時期については歴史ではなく、記録と割り切りました。最近の出来事はまだ評価する段階にはないので歴史ではないということです。

八つ目です。許諾権利関係です。お得意先があっての広告会社なので、細心の注意を払いました。途方もない手間暇をかけました。

九つ目です。編纂プロセスでの配慮です。社内外で何かあるたびに「こういうものを作っています」と挨拶し、意見を伺うようにしました。プロセスにおいても120年の感謝を届けようという姿勢で臨みました。OBにもできるだけ会って話を聞きました。

編纂体制と期間について…

2012年9月に編纂委員会を設立し、正式に編纂を開始しましたが、資料収集をはじめとする作業そのものは2010年から始めていました。事務局を設け、人を集めてもよいという内諾をもらったのが2011年3月です。

当初は、事務局長兼編集長(広報室長)、進行管理・費用管理を担う管理職、本編の時期区分ごとの担当3人と、主に資料の整理を担当するアシスタント2人の体制でした。

その後2014年に仕事編の遂行のために許諾専従者を4人に増員しました。

時代ごとの資料を収集し、ライターさんにオリエンテーションをし、書き起こしてもらったものを組み替え、書き換え、トップに確認する。その繰り返しが丸3年です。

資料編にはそんなに時間がかかっていませんが、仕事編は許諾を取るだけで丸2年間、専従の4人が走り回りました。ペーパーバック版は、外部執筆者にオリエンテーションをするのが早すぎたのですが、2014年夏に原稿がほぼできていました。ペーパーバック版の後ろで80ページぐらいに歴史のダイジェストをまとめていますが、本編の原稿がほぼできたところでサマリーにしました。そういう作業段取りでした。

編纂を終えての感想は…

最後に「わが意を得たり」と感じたことを紹介します。『国立国会図書館月報』に「本屋にない本」というコーナーがあり、そこで『博報堂120年史』を紹介していただきました。第1部は「その歴史はまさに出版史とリンクしている」、第2部から第4部は「広告を取り巻く社会状況が変化する中、博報堂が、広告の近代化や、『生活者』発想への転換などの取り組みを進めていく様子が書かれている」、ペーパーバック版は「エッセイなどが、軽妙な筆致で綴られており、読んでいてとても楽しい」「社史をかたい本とやわらかい本の2冊構成としたところや、ちらりとのぞく遊び心に、博報堂の社風や社史編纂者の思いを感じた」とあり、とても嬉しく思いました。