ヤクルト75年史

株式会社ヤクルト本社広報室特別参与 伊藤親利さんの体験談をうかがいました。

会社概要をお聞かせください…

株式会社ヤクルト本社の設立は1955年(昭和30年)4月9日。現在の所在地は東京都港区東新橋1丁目1番19号です。資本金約311億1,700万円、従業員数2,996名、事業内容は「ヤクルト」や「ヤクルト400」だけでなく、「ジョア」や食品、化粧品、医薬品などの製造販売となっています。

30年ほど前のバブル期に、資金運用、デリバティブなどで利益を出しましたが、特損1,000億円超という大事件を引き起こし、現在はファンドなどに投資することはすべてご法度です。

他に抗がん剤に特化した医薬品は利益源でしたが、2012年の薬価改定で不振になり、代わって海外事業が活発です。ヤクルトは国内だけでなく、海外に27の事業所、32の国と地域に進出をいたしております。海外展開の利益、売上高が大いに反映し、平成26年3月期、連結売上高約3,500億円、経常利益約400億円を計上しています。

ヤクルトのイメージをみなさまにお聞きしますと、日本国中、決まって「ヤクルト」、「ヤクルトレディ」、「スワローズ」という答えが返ってきます。乳製品は、国内外合わせて毎日約3,000万本が販売され、ヤクルトレディは国内約4万人、海外約4万2,000人、合計8万2,000人が、世界中で活躍しております。

東京ヤクルトスワローズは、球団の経営はそこそこですが、ただ一つ成績不振の事業です。昨年は最下位、今年(2014年)も「三強二弱一論外」の「一論外」と言われ、最後まで最下位を独走してしまいました。つい先日、成績不振で監督更迭ということになりました。もっと長くやってほしかったのですが、何とも残念な限りです。

会社の沿革は…

1930年(昭和5年)、医学博士代田稔が京都帝国大学医学部で、「ラクトバチルス  カゼイ シロタ株」(今日の「乳酸菌 シロタ株」)の強化培養に成功し、5年後、福岡市で「ヤクルト研究所」のもとに、乳酸菌飲料「ヤクルト」が発売されます。ヤクルトの創業日は、代田博士の菌株が提供されるようになった1935年、当時その年に収穫された穀物を神に供える日とされた新嘗祭である11月23日と定め、名称も「代田保護菌研究所」としました。その中心となったのが、後の株式会社ヤクルト本社の初代社長永松昇氏です。

当時永松氏は、菌株を求めて京都帝国大学をしばしば訪れ、代田博士と出会います。代田博士の「予防医学」「健腸長寿」「乳酸菌飲料の普及を通じて人々の健康に貢献する」という考え方に大いに感動しました。今でも企業理念とともにヤクルトでは「代田イズム」として大切にしている考え方です。

1939年(昭和14年)、永松氏は販売部門の分離独立を図り、「代田保護菌普及会」を設立、本社を山口県宇部市に置き、中国地方をはじめ西日本に販路を広げました。

しかし、1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が勃発し、原材料、特に乳の入手が困難になりました。代用品として蚕のさなぎを牛乳の代わりにしましたが、これも手に入りにくくなり、やがて事業は縮小されました。

戦後、ばらばらになっていたヤクルト関係者を代田稔、永松昇の両氏が集めました。旧ヤクルト関係者を中心に事業再開の機運が波及し、1951年(昭和26年)戦後初の本格工場である大牟田工場を立ち上げました。また、全国規模に組織再編するため1955年、販売会社、製造工場の関係者らの強い要請で1955年(昭和30年)4月、株式会社ヤクルト本社を設立、初代会長に代田稔、初代社長に永松昇が就任します。

この本社設立前夜、ニューリーダーが登場します。1954年、松園尚巳氏は九州から自己資金を携え上京し、永松氏から八王子の営業権を受け、関東の製造工場を中心に短期間のうちにグループ最大規模の製造工場を持つまでの実力者になりました。1963年(昭和38年)3月29日、永松氏が社長を退任、松園氏が専務に、二代目社長は代田博士、会長は財界から南喜一氏が就任しました。ヤクルトは松園氏というリーダーの下、新しい施策を次々に打ち出し、業界トップの座へと上り詰めることになります。

権力抗争後、永松氏は退陣、1965年(昭和40年)に設立した別会社で乳酸菌飲料「クロレラ・プレット」を製造して、独自の道を歩み始めました。

社史の仕様・構成は…

社史の編纂を私なりに料理になぞらえ「おいしい社史」の作り方というタイトルでまとめてみました。

1番目は、「おいしい料理か、立派な料理か」

読んでおもしろい社史か、豪華な社史かということです。13年前、刊行に向けて船出をしようとしたとき、当時の堀社長(現会長兼CEO)が、「社史や企業史はただ飾っておくものではなく、多くの人が楽しく読んでいただくものでなければならない。そういう社史をつくって欲しい。もう一つ、歴史は絶対に曲げてはならない。偏った社史をつくってはならない」と申しました。

私は社長に念を押しました。「創業以来の大功労者である初代社長との権力闘争なども全て書いてよろしいのですか」と。社長は「それでよろしい」。そういう回答でした。

社史は豪華本もいいものです。中身はガチガチにガードが固く、表現は穏健そのもの、ハードカバーの表紙に金か銀の特色を使った帯を巻いて、金粉を散らした豪華な箱に収められている。トップに第1冊目を献呈すると、ため息をついて「よくできたな」と絶賛。そのまま社長室に永遠に眠ってしまう。そういう社史も当然あっていいと思います。ですが、ヤクルトは読んでもらう社史、誰もが読みたくなる社史を絶対的な基本方針とすることにしました。

「ヤクルト75年史」は本社だけでなく、ヤクルトグループ全体の歴史を記載しています。体裁は4部構成で、A4判変形、本編上下2巻(上巻175頁、下巻212頁)、資料編105頁、別冊はB5判31頁、合計523頁です。

私共の社史には「刊行にあたって」というものはありません。理由は「前文」や「刊行にあたって」というものは絶対に読まれないからです。そのわりには労力がいる。格調の高い言葉を一生懸命操り、最後に決まって「弊社に対するご理解の一助となるように願ってやみません」と。そんな草案を書いて、しかるべき部署に校閲に回す。または、しかるべき方にお伺いを立てる。そこで修正が入る。直して持っていくとまた修正が入り、「こっちのほうがいいかな」。揚げ句の果てに、「文章が上手なだれそれにも見せて意見を聞いてみなさい」。だいたいこういう具合ではないでしょうか。刊行後は、誰も目もくれない。そんな無駄なことはしたくないというのが趣旨でした。

当社の社史は2014年3月25日、友引に発行しました。多くの方のご支援やご協力があって、そして配布する先の方々とこれからも「えにし」を結んでいかねばならない。そう思って日柄まで選びました。

具体的な作業内容とポイントは…

二番目は「おいしい社史は素材のよしあしで決まる」

素材の話です。以前、総務部に史料収集チームという部署が存在していました。1930年、代田稔博士が「乳酸菌 シロタ株」を開発し、乳酸菌飲料「ヤクルト」を発売した戦前から、史料収集チームが解散した2000年ごろまでの、ありとあらゆる史料を10年以上かけて集めて保管してありました。この膨大な歴史の史料がなければ社史はつくれなかったといっても過言でありません。創業者代田稔博士の誕生から亡くなるまでの写真、創業当時の写真、戦後の復興の様子、古い工場や販売会社の写真、容器の変遷、看板、広告関係。特にお亡くなりになった創業一族の方たちからの聴き取り話。今となってはお聴きするすべもないですが、よくぞあのときに10人以上の方からインタビューをして聴き取っておいてくれたと、たいへんに感謝をしております。

そして質、量ともに優れたものでした。写真についてはきれいに撮れているだけではなく、年代や写っている方の名前、場所が明記されていました。さらに、創業当時の方からの聴き取りでは、複数の方から同じような話を聴き取っていました。これは話の信憑性の問題で大切なことです。回顧談の聴き取りは、とかく自分中心になりがちです。そのまま鵜呑みにできませんので、複数の方の同じ話に基づいて事実判断ができると思います。そのように史料収集チームの過去の労苦は今回の社史刊行の最大の功績であると先輩諸兄に大いに感謝を捧げております。社史のよしあしはすぐれた素材に尽きるかもしれません。

三番目は「献立、すなわち仮目次づくりは時間をかけてじっくり煮詰める」

執筆を始める前に重要なことは献立づくり。すなわち仮目次、あるいは基礎年表を、時間をかけてしっかりとしたものをつくり上げることです。社史の骨格を固めることが、出来あがりを左右する重要な分かれ目だと思います。

四番目「この人しかいないという料理人(シェフ)を選ぶ」

「飾っておく社史ではなく、楽しく読んでいただく社史にしてくれ」という社長の一言は私たちにやる気を起こさせました。おいしい料理をつくるには最高の料理人、シェフを選ぶ。社史制作も同様です。最高のライター、最高のデザイナー、最高の印刷会社を選ぶ。これが私たちの方針でした。印刷会社は凸版印刷にお願いしました。凸版さんには年史センターの丁寧なチェックやアドバイスをはじめ、とても信頼性の高い仕事をしていただきました。

さて、ライター、デザイナーですが、とびきりのライターを起用する。これは絶対に譲れないと思いました。当社では仕事の上で、超一流の演出家、脚本家、カメラマンとお付き合いがあり、質の高い広報ビデオや研修ビデオをつくっています。読ませる社史をつくるには脚本家のUさんしかいないと考え、執筆をお願いしました。社内で書く、社史ライターさんに頼む、研究の専門家に頼む。選択肢はありましたが、脚本家の方を起用しました。これが当たりました。

社史専門のライターは堅実ですが、慣れた仕事を慣れた形でやってしまうかもしれない。私はこれが気にかかり、Uさんにたってのお願いをし、たいへんなご多忙の中、承諾いただけました。こうした稀有なパートナーとの巡り合いも、よいものをつくる上でとても重要なことだと思います。

編纂体制と経過について…

五番目は「社史編纂委員会のお膳立て」

今回、社史を円滑に刊行することができた要因の一つは、社内に社史編纂委員会を設置し、大いに活用したことによると思います。当社は8つの事業本部に分かれております。編纂作業は、広報室が一方的につくるのではなく、各々に決定権を持たせ、細かいところまで事業本部ごとにチェックしてもらいました。こうして当社始まって以来の社史編纂事業は全社的な規模で進めたのです。

13年間に社史編纂委員会は計4回開きました。8つの事業本部の役員をその都度網羅しておりましたので、委員数は延べ32人に上りました。そして、4回とも仮製本したサンプルをつくり、全ページ、厳密に校閲を社史編纂委員会にしてもらいました。このような細かい作業を通して、委員は自分たちの手でつくり上げたという意識になり、今回の編纂の目的は狙い通りになりました。

校閲結果は多岐かつ膨大な量になりました。少数意見でも良しと思えば採用しました。そうでない場合でも、社史編纂事務局の権限で判断しました。その判断理由も明確にし、結果として事務局一任で、問題は起こりませんでした。決定事項は社史編纂委員会が決めたという形をとり、中身は事務局一任にしたのです、これが社史制作成功の大きなポイントでした。

70年史刊行でスタートをして、最終的に75年史となった13年間、何をやっていたのかという疑問の声が挙がりそうです。ありていに申せば、抜本的なつくり直しをやっていました。創業に携わった方への再取材、事業転換期に中心になった人たちそれぞれへのインタビュー、全編にわたる不適切な言葉の排除。新たな証言を見つけ出して取り除いていく作業など、社史を記すということはここまでやるべきなのかという思いを強くしました。

本文や写真のキャプションはもちろん、古い小さなチラシの文言も全てチェックしました。昭和30年ごろまでは許されていても、現在はNGといった表現や文章が大量に見つかりました。さらに社史編纂委員会に校閲を依頼すると、思いがけない修正、訂正が大量に出て、大混乱になりました。創業70周年刊行どころでなくなり、ただただお蔵入りにならぬようがんばったのです。タイトルは「ヤクルト75年史」、70年史から一文字変わっただけですが、ようやく創業75年の2014年3月に刊行できたときは、綱渡りのような13年間だったと、実感したものです。

六番目は、「食べさせたいお薦めの一品、社史の肝」

仕事には感動があって初めてやりがいがあり、思い入れがあって初めて仕事に輝きが生じます。社史編纂も同じです。17年間、毎日のつらく切ない社史制作の仕事に携わり続けられたのは、この一言が言いたい、この一節を読んでいただきたい。この1枚の写真を見て、感動を伝えたいという強い思いが支えにあったからこそだと思います。

1954年(昭和29年)全国の販売者や権利者たちが集合しました。設立に集まったのは一旗揚げてやろうという人たちでした。その先輩たちが半紙にガリ版刷りで、事業内容の清く、美しい序文(詳しくは社史参照)を旗印にすると決めたことを思い起こすと、私はいつも大きな感動を覚えます。この言葉を広く知っていただきたい、この思いで社史を作り続けることができたのです。

七番目、「時にはコラムやクローズアップで箸休め」

本編は読ませるためのいろいろな仕掛けが施してあります。コラムを挟むことや、特定の事柄を見開きなどで大きく取り上げるクローズアップしかりです。「読み始められたらやめられませんな、この社史は。仕事の合間に2日間で全部読んでしまいましたよ」と言ってくれた役員がいました。そして、できたら即配布、熱々を食べてもらうと文句も少ない。完成したら、日柄のよい日を選んで、速やかに刊行する。ぐずぐずしていると、いろいろな横やりが入って、なかなか刊行できなくなってしまうことがあります。これは実感としてお伝えしておきます。

編纂を終えての感想は…

刊行後、多くの方々が読んでくださっているようで、特に、当社がつぶれかかった1,000億円超の特損事件と、その後の再建の様子を記した別冊は真っ先にお読みいただいているようです。中身もなかなかでありますが、手に取りやすいコンパクトな体裁だからではないかと思います。それなら本編も、もっと手軽な体裁にすれば、もっと目的にかなったのかなと思います。

当社刊行の社史について縷々申し上げてきましたが、私の今の心境を申し上げます。社史は一人ではつくれない。社史は一つの部署ではつくれない。「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじをつくる人」という言葉があるように、たくさんの人たちの支えがあって、数多くの人たちの協力があって、社史は初めて公に日の目を見る。私は今、わらじを編んだ一人として、格別な喜びに満たされています。こういうセミナーの場でお話をすることができる。本当に幸せなことだと思っております。この喜びを皆さまにもぜひ味わっていただきたい。そのように願っております。