トンボ鉛筆100年史

株式会社トンボ鉛筆 執行役員(人事総務担当) 社長室長 兼 経営戦略部長 菅 晃千さんの体験談をうかがいました。

社史制作の目的とかかった時間は…

「100年史」は創立100周年事業のひとつとして、国内に限らず、海外、さらに工場の社員向けにも制作しました。2012年1月に刊行を決め、完成は2013年3月です。

会社概要をお聞かせください…

トンボ鉛筆は非上場で公開会社ではありません。社名は比較的有名だと思うのですが、内情は一般にはあまり知られていないかと思います。創立は1913年(大正2年)、2013年2月11日に100周年を迎えました。売上は107億円(単体)、従業員数は400名(国内)、海外の販社3社、工場3社を合わせ、合計約1500名、事業内容は文房具の製造、販売です。海外販社は、アメリカに「アメリカントンボ」、ドイツに「トンボペン&ペンシル」、中国大連に2年前にできた「大連トンボ」です。生産工場はタイに製造拠点が1つあり、のりやボールペンの組み立てを行っています。ベトナムに2つ工場(ホーチミンの北と南)があり、 修正テープや鉛筆などを製造しています。国内では愛知県新城市に工場があり、鉛筆やマーカーなどの組み立てをてがけています。

会社の沿革は…

1913年2月11日、創立者小川春之助が文房具類の卸業として小川春之助商店を立ち上げました。もともと、春之助の父親が鉛筆製造工場を持っており、次第に鉛筆製造に特化していきました。1928年、日本初の本格的な製図用鉛筆「TOMBOW DRAWING PENCILS」を発売。これは先ごろ創立100周年の記念商品として復刻盤を発売しましたので店頭でご覧になった方も多いと思います。

1945年、終戦の年、空襲で工場が完全に焼失しました。その時社長は「復活は無理だ」とあきらめましたが、多くのご支援をいただき、その年の7月、工場を再建し製造を再開しました。会社にとってこの出来事は復活のための大きな起点になりました。

終戦後もしばらくは鉛筆がメインの会社でした。この頃、皆さまよくご存知の黄色いパッケージの「8900」番の鉛筆が誕生しました。本業から外れますが10年後、プロ野球球団「高橋ユニオンズ」に1年だけ「トンボ・ユニオンズ」という名称でスポンサー参加をしたこともあります。文房具では1957年にシャープペンシル「HOMOホルダー」を、1958年にはボールペン「クラウントンボ」を発売しました。トンボ鉛筆という会社でありながら「ボールペントンボ」という名称が使えなかったのは「トンボ」という商標が鉛筆以外の文房具類で他の方が権利をすでに取られていたからでした。

この時期から鉛筆以外の文房具を手がけましたが、1967年から68年にかけ、ボールペンの品質不良問題があり、厳しい経営難に遭遇しました。それを救ったのが、国産初のスティックのりの「ピット」です。今は「消えいろピット」として皆さまお馴染みの文房具です。これをきっかけに、また会社が発展していくことになりました。

1991年、乾かす手間がいらない修正テープ「モノホワイトテープMS」を発売。今では修正テープのトップシェアになっております。1993年、塗った所の色が消えていくのり「消えいろピット」を発売するなど、業界でも絶えず先進的な商品を出してきた歴史を持った会社ではないかと思います。

社史の仕様・構成は…

社史制作の方針として明確にしたのは、従業員に向けたメッセージにすることでした。特に社長から「歴史の共有、温故知新」というキーワードをいただき、これをベースに進めていきました。成功の歴史だけ並べるのではなく、失敗や会社が苦境に瀕したとき、どのように乗り切ったのかということもできるだけわかりやすく記述しました。一般的に社史は書棚にしまいこまれ、中身に目がいかないのがほとんどです。気軽に手にとって読める、特に従業員に読んで欲しいという思いで重厚な装丁はやめることにしました。制作目的を明確にしたことが成功のポイントの1つかと思います。日本語版と英語版の他にタイ語版とベトナム語版を作りました。タイとベトナムのスタッフは正社員ですが、すぐ辞めてしまう傾向です。給料はそこそこよく、日本の会社だから入ってみた、けれど会社のことはよく知らない、その程度で働いている従業員が多いので、会社のことをもっと知って、定着してもらうためにも海外従業員向けを制作しました。

ムック本との関係はどうするかという問題がありましたが、社史を作ることが決まったことで、ムック本から歴史的な要素を取り除き、記念誌というよりも宣伝材と位置づけました。これで社史とムック本の方針をそれぞれ明確にすることができました。

形体面は、社史はお取引先さまにもお配りするので、手軽すぎず、重すぎず、その上で、トンボ鉛筆らしさを出したいと考えました。全体で100ページ程度、ハードカバーではなく、持ち歩きやすい、そしてビジュアルにも配慮すること、この3つの大枠を決めました。業績のデータなどは除き、読み物的な色彩を強く出し、文章にも気を配りました。当初の考え通りに完成したと思っています。

編纂体制と経過について…

創立100周年記念事業がスタートしたのは、2010年4月です。当時の管理本部長が創立100周年記念事業を発起し、スタートしました。メンバーは自主参加体制で、会社の歴史を盛り込んだ記念誌を作り市販するムック本企画がメインでした。100周年事業とは別に、歴史的な記録や、情報、過去の商品の収集に関して社内最年長の顧問を中心に既に進めておりました。

その後、6月に100周年記念事業の体制を再構築しました。イベント色を廃し、周年事業を社業の発展に寄与する内容に定めたのです。

2012年1月、ムック本は並行して制作していましたが、「社史を作らないと周年の目的が達成できない」という考えから社長の決断で社史を作ることになりました。ただ2013年2月が創立記念日で残り1年となり、これから人選する時間もなく、当時いた事務局メンバーで進めることになりました。

協力会社をどこにお願いするかを検討した結果、昔からお付き合いの深い凸版印刷さんにお願いすることになりました。体制は、社長が最終承認という立場で加わり、基礎資料の収集整理は顧問が中心になり、執筆、校閲、最終的なデータ収集は広報部門中心でスタートしました。海外版については翻訳は社内のネイティブに依頼し、レイアウトの確認、校正は凸版印刷さんと毎日のように打ち合わせをして進めました。物流や配布先の確認などは営業やその他の部署と連携して決めていきました。

具体的な作業内容とポイントは…

1年という短期間でしたので、強引でしたが方針を決め、いち早くスタートを切れたことが勝因でした。いかに早く刊行の目的、方針を決めて着手できるかが成否を左右するのではないかと思います。基本的な作業では、年表作成はかなりの部分を、顧問が調べていましたので、たいへん助かりました。しかし実際の作業になると整合性が怪しかったり、誤りがあったり資料がなかったりということも、あとから出てきましたので、簡単に編集作業、校正作業が進んだわけではありません。何度もやり直しをしながら進んでいったというのが正直なところです。現実の編纂作業というのは多分そのようなことかと思います。あまり手を広げず、あちらこちらにいろいろなものを頼むというより、少人数で集中して一気に進めていく、という方がやりやすいのかもしれません。日本語版が出来上がったところで、英語版の校正もかなり短期間で凸版印刷さんにまとめていただきました。それらがほぼ終えたところでタイ語版、ベトナム語版を手がけ、2013年3月の発刊予定に間に合わせることができました。

編纂を終えての感想は…

成功のポイントは早めに他の既刊誌から参考になるサイズ、装丁、形式、などのヒントを見つけ出し、自分たちの趣旨に沿った形を決めたことでスムーズに作業を進めることができたことです。

一番大きなポイントは会社の歴史をきちんと記録する作業かと思います。そのために社外の方、コレクターの方などとの接点を持つことも大事なことだとつくづく思いました。歴史事実は丹念に史料をひも解いたり、インタビューをしたり、客観的な資料、新聞の記事、業界系団体からの資料、これらをコツコツと収集することが重要で、社史刊行にかかわらず、日ごろやっておくべき大切なことと痛感しました。それからタイ語版、ベトナム語版。翻訳校正をどうするか。現地の多くの方々の好意的なご努力により、何とかなったといえますが、私たちは自分たちの目で確認できません。自分が直接関われず、大丈夫かという心配が残りました。制作に際し、専門的な翻訳のできる方を身近に確保して進めることも必要かと思いました。

執筆は社内で進め、凸版印刷さんにリライトしていただきながら進行しましたが、客観的な視点も必要で、1冊の本に仕上げるためにはどうしても外部のライターさんの力がないと難しいと思いました。

それから会社の経営の歴史とともに商品自体の歴史があります。トンボ鉛筆は、当初は経営の歴史と商品の歴史がほぼパラレルなものでしたが、戦後以降、鉛筆自体の消費量としては十数パーセントしかなくなり、かなりずれてまいりました。その転換点をどう捉えるか。特に最近、企業の業容の変化が激しく、歴史の流れの中で両者をどう扱うべきか難しい問題で、苦労した点といえます。

今後の課題としては、調査体制、集めた資料の保管保存方法なども含め、いかに次世代につなげていくのか、私たちが答えを出していかなければと思っております。