三井不動産七十年史

三井不動産株式会社 元社史編纂部会事務局長 池田磨佐人さんの体験談をうかがいました。

社史制作の目的とかかった時間は…

「七十年史」は会社創立70周年事業の一環として制作されました。事前に執筆者をはじめ編纂体制を決め、2008年12月の上旬、実際に稼動し始めました。完成は2012年3月初めです。約3年3カ月かかりました。

会社概要をお聞かせください…

三井不動産は日本を代表する不動産会社であり、三井グループの中核企業の一つです。180社を超えるグループ会社とともに幅広く事業展開をしています。その概要は以下のとおりです。

商号 三井不動産株式会社 Mitsui Fudosan Co., Ltd
本社 東京都中央区日本橋室町2丁目1番1号(三井本館)
設立 1941(昭和16)年7月15日
資本金 174,296百万円
年間売上高(連結) 1,338,102百万円(平成23年度実績)
株主数 34,164名(平成24年3月31日現在)
従業員数 1,256名(平成24年3月31日現在)

会社の沿革は…

1941年に三井合名会社不動産課を母体として創立されて以来今日に至るまで、各年代にそれぞれエポックメイキングな成長の節目がありました。創立当時からの賃貸ビル事業に加え、1950年代後半から臨海埋め立て事業に乗り出したことが総合デベロッパーへと成長していく最初の大きなきっかけとなりました。1968年には我が国初の超高層ビルを竣工させ、1970年代に入ると住宅事業に本格進出、1980年代には商業施設やホテル事業を手がけ、海外展開も含め事業領域を広げていきました。次々と事業を拡大する中で増収増益を続け、経営は順調でしたが、バブル崩壊後1990年代は一転して苦境に立たされることとなりました。しかしバブルの負の遺産を早期に清算すると、持ち前のチャレンジ精神を発揮して事業手法のパラダイム転換を果たし、証券化スキームに活路を見出すなど、リスクと収益性・成長性とのバランスのとれたビジネスモデルを確立していきました。2007年に完成した東京ミッドタウンは、三井不動産が成し遂げてきた数々のイノベーションの集大成に位置付けられるものだと思います。

社史の仕様・構成は…

「三井不動産七十年史」は「七十年史」というタイトルですが、既刊史「三井不動産40年史」がありますので、実質の対象期間は30年間です。本文が643ページ、資料編まで含めて813ページ、通常の編年体で構成されているオーソドックスな社史です。発行部数は約4,500部です。当初から「40年史」の続編であるという考えが前提にあり、装丁、記述のスタイル、基本的な仕様と体裁はほとんど踏襲しております。構成も「40年史」と同じような章立てとしました。つまり序章と最終章だけは別ですが、第1章から第5章まで各章の中身は第1節がマクロな事業環境、第2節は会社全体の経営方針、経営戦略、第3節以降でグループ会社を含めた各個別の事業、最後の節でまとめの意味で決算数字を掲載しました。今回は「40年史」の後の30年分を新たに編纂しましたが、序章に「40年史」の縮約を置き「七十年史」としても完結した読み物になるようにいたしました。

編纂体制と経過について…

2008年4月1日付で私は社史編纂の専任の担当者として任命され、それから完成までの間ずっと、編集長役ともいうべきリーダーとの二人三脚で編纂を進めていきました。編纂作業のスタートに先立ち、社内の関係部門長に集まっていただき4月から計6回の準備会合を開きました。その結果を受けて、執筆陣については前回の「40年史」で大変お世話になりました三井文庫文庫長、由井常彦先生にご推薦をお願いし、由井先生を含め4名の先生が執筆に当たっていただけることになりました。編集面では、これも「40年史」と同じく日本経営史研究所さんにご依頼し、実働部隊として凸版印刷さんをご指名いただきました。スタッフが揃い、2008年12月に先生方と我々との第1回のキックオフミーティングが行われ、実質的な作業が始まっていきましたが、その後2009年4月に正式な組織として「社史編纂部会」が70周年実行委員会の下に設置されました。私はそこで事務局長という役割を与えられましたが、専従の事務局員がいるわけではなく、事実上私1人だけという状態でした。社史編纂部会は社長が部会長ということもあり、スケジュール的な制約から開催回数が限られましたので、編纂作業は事務局主導で、適宜部会長の承認をいただく、という形で進められました。このような状況の中で「三井不動産七十年史」は動き出したのですが、結果的に完成が当初予定の2011年末から翌年にずれ込んでしまいました。当初のスケジュール自体も本来7月15日の創立記念日がターゲットであったところを年末まで猶予していただいたものでして、それすらクリアーできず、自分としては誠に情けない思いをいたしました。

具体的な作業内容とポイントは…

スタートまでの準備にかなり時間をかけましたが、その分、歴史認識や社史の大枠のイメージの議論ができましたので、時代区分と全段の章立て、先生方の執筆の担当範囲、仮目次作成までは順調に進みました。ですからスケジュールの遅延は、そこから先の進行管理に問題があったということです。社史の執筆をお願いした先生方と我々企業人とのスケジュール感覚の違いを事務局がマネジメントとして割り切って進めることが必要だったと思います。編纂過程で決定的に重要なのは、1次原稿、第1稿の完了時期です。それが予定より遅れ、時間的に余裕がなかったことで、1次原稿を事務局が十分に査読できず、そのまま所管部門に校閲を依頼しましたが、最初の社内校閲では必ずしも有効なフィードバックを得られませんでした。それ以降、事務局による事実確認と文章修正、再度の部門校閲、編集者側での校正、これらが同時並行で進み混乱することになりました。さらにこの時期、事務局では独自に加筆しようとした序章部分と、バブル期の経済変動期に関する詳細な執筆、資料編の作成、画像の収集が重なり、余計にこの時期の負荷を大きくしました。繰り返しますが、スケジュール管理の最大の山場は1次原稿の仕上がりだと思います。ここが大きなポイントで、ここさえうまく乗り切れば、あとはどうにかなるというのが今回の経験でした。

1次原稿の仕上がりの遅れは、原稿を書く上での資料不足が原因であったと考えます。最初から資料が揃っていれば練達の先生方ですから、期日までにきっちり原稿を仕上げていただけたと思います。今思えば、資料についてはないものねだりをせず、あるものだけで書く、と割り切ってしまった方が良かったような気もします。参考までに、役に立った資料は社内報、ニュースリリース、決算資料、不動産業界の会報、その次には、社内で毎年作成している不動産統計集です。関係者へのヒアリング、インタビューというのは資料の裏付けや不足を補う意味で非常に重要です。セッティングや撮影など手間がかかりますが、今回はOB、現役も含めて、相当な人数をこなし、大変役立ちました。

編纂を終えての感想は…

私にとって「七十年史」編纂は、スケジュールという時間との戦いであり、資料収集という情報・データのロジスティックスとの戦いでもありました。編纂は人の手でやることですから、事務局にもっと人を投入しさえすればちゃんとスケジュールどおりに刊行できただろうと思われがちですが、私の考えは逆です。人員はできるだけ少ない方がいいと思います。ただ、もしあと1人だけ私の下にいてくれたら、かなりパフォーマンスが上がったと思います。また役割分担がしっかりできればもう1人いたら更によかったと思います。今回の場合ですと、1人は資料編に専念するという役割分担ができましたので、3人のチームでしたらベストだったかと思います。人数は少なくてもフルに専念できることの方がはるかに重要で、そのためにも正式に人事から任命されることはとても重要だと思います。

社史は事実を淡々と書いていくもので、主義主張は極力差し控えるべきではないか、その意味であまり肩に力を入れなくともよいのではないかと思います。肝心なのはスケジュール管理で、期限を守ること、そして年史刊行のタイミングはオーラルヒストリーのインタビュイーのことを考えますと30年間隔が限度かと思います。

社内に大委員会を作ることもなく、事務局が2人、兵隊は私1人だけ、そんな最小限、最低限であってもなんとかなった、というのが「私の負け惜しみ」であり、これから社史をお手がけになる方には、一番記憶にとどめておいていただきたいポジティブなメッセージです。