長瀬産業株式会社 創業175年―この40年の歩み

長瀬産業株式会社人事総務部社史編纂担当 岡田藤郎さんの体験談をうかがいました。

社史制作の目的とかかった時間は…

当社は2007年、平成19年6月に、創業175周年、会社設立90周年を迎えました。創業135年、会社設立50周年にあたる40年前にも社史を制作しましたが、それ以来長い年月が過ぎており、歴史の空白が広がらない、同時に貴重な資料が散逸しないうちに収集・整理して、正式な社史として残そうというのが、第一の目的です。

2004年7月に社史の制作が決定し、2008年3月に関係各所へ配布しましたから、約3年半かかったことになります。

会社概要をお聞かせください…

創業は江戸時代の1832年、天保3年です。会社設立は1917年、大正6年12月で、2008年3月末現在の資本金が96億99百万円、連結売上高は7,647億55百万円、従業員数は連結で4,335人です。海外を含めた連結会社が51社、主な事業内容は、化学品、合成樹脂、電子材料、化粧品、健康食品などの輸出入と国内販売で、歴史的には化学品の専門商社といわれてきました。最近は「知恵をビジネスにする技術・情報企業」と謳っておりますが、端的にいえば生産・研究開発機能を持った商社です。

会社の沿革は…

1832年、京都・西陣において絹織物産業向けに染料・でんぷん・ふのりなどを販売する「鱗形屋」として創業しました。天然染料から合成染料へと市場が変化する中、1900年にはスイスのバーゼル化学工業(チバ社)と取引を開始しました。1930年には米国のユニオンカーバイド社(現在ダウケミカル)の代理店となりました。日本の化学工業が本格的に立ち上がる前に欧米の化学工業製品を紹介し、市場を拡大し、そこから国内の商売に結びつけて発展していったのです。株式会社発足は1917年で、1939年には尼崎工場で糊抜剤(のりぬきざい)製造を開始しました。商社でありながら、早くから「ものづくり」を手がけてきたというのが当社の特徴といえます。化学品とは異なりますが、1926年、大正15年から米国イーストマン・コダック社の映画用フィルムの輸入を開始、その後写真関連製品全般を扱う総代理店となりました。原材料の取り扱いの多い当社にとってこの時期、写真フィルムの販売を通じて名前が一般消費者にも知られるようになったかもしれません。コダック事業は平成元年に日本コダック(株)に引き継がれるまで続きました。

1968年、General Electric社と合成樹脂の代理店契約を結びます。これは日常よく目にするポリエチレンとか塩ビなどとは異なる、より物性の高い、いわゆるエンプラ(エンジニアリング・プラスチック)といわれる樹脂です。現在はコピー機、パソコン、自動車などに盛んに使われているエンプラですが、当時市場はまだ創成期というべき時期で、その扱いに関しては社内で是非論が沸騰したそうです。

1970年、東京・大阪両方の証券取引所で一部上場を果たしました。この年、チバ社との間でエポキシ樹脂を製造する合弁会社「長瀬チバ株式会社」を設立しました。翌71年にはGE社との合弁会社「エンジニアリングプラスチックス株式会社」を設立してエンプラの国内生産に乗り出しました。

商社事業や製造事業だけではなく、1989年には「長瀬科学技術振興財団」を設立、以来化学・バイオの研究開発への助成をしています。翌年には商社としては珍しいと思いますが、研究開発機能と技術評価機能を発揮する為に神戸ハイテクパーク内に「研究開発センター」を開設しました。また2001年には、主要製造子会社4社を統合して資本金24億20百万円の「ナガセケムテックス株式会社」を設立しました。この会社は現在、当社のメーカー機能の中核を担うものとなっております。

社史の仕様・構成は…

まず考えたのは、手にとって読みやすいものにしようということでした。社史というのは、なかなか読んでもらえないものと思っておりましたので、写真を多くしてボリュームは抑えることにしました。A4判192ページ、ソフトな表紙を使用した上製本で、社員配布用はケースなし、顧客・取引先配布用にはケースを付けました。

全体を(1)写真による会社紹介、(2)本編(沿革編)、(3)資料編、の3つで構成しています。本編は、40年前の社史「135年史」を思い切り圧縮して第一部とし、第二部を「近40年の歩み」として詳しく語るようにしました。第二部の章立ては、この40年の間に会社運営の指揮を取った4人の社長の在任期間ごととしました。

それと私の個人的な思いでもあったのですが、過去を知ってもらうのと同時に経営幹部が近未来をどう考えているのかを伝えたくて、わずか4ページではありますが社長による特別寄稿も掲載しました。もうひとつ、今回の社史には社長以外は極力個人の名前は出していません。商社ですから、さまざまなプロジェクトがあったわけですけれども、あくまでも仕事は組織としてやったものだという考えからです。

編纂体制と経過について…

編纂チームは3名です。担当者1名、これは私で、兼任ではありますが軸足は社史編纂に置いていました。派遣社員1名、この方はよその社史を制作した経験のある文筆専門家で、2年半この仕事に専任していただきました。強い味方になったのは間違いありません。ほかにアシスタントとして社員が1名、この社員は兼任です。

社史の編纂が決定したのは2004年7月1日で、そこから約1年間は資料の収集と整理に費やしました。集めた資料をもとに約2カ月かけて検討した結果、全体方針が決定したのは2005年8月でした。基礎年表がまとまったのは翌月です。

実は、ここまでの作業に私は関わっておりません。当初から担当していた執行役員が2005年6月に関係会社の役員として転出してしまい、その後しばらくリーダー不在のまま作業を続けることになりました。私がこの仕事に就いたのは10月のことです。

メインである「近40年の歩み」の仮目次を作成し、それに沿った取材を終えたのが2006年の12月。並行して進めた「135年史」の要約も、ほぼ同時に仕上がりました。また、口絵用の写真もこのころまでに収集しました。

原稿の執筆には1年ちょっとかかったので、終わったのが2007年9月でした。翌月には口絵や資料編のレイアウトができあがり、その後およそ3カ月間で校正作業を行いました。

具体的な編纂のポイントは…

編纂の指揮をとるのは、勤務経験が長く社内で顔の広い人がいいですね。情報はできるだけ多く集めたいものですが、あちらこちらに散在しているので、誰に聞いたらいいのかを知っている人、いろいろな所に顔の利く人というのが仕事をスムーズに進める要因だと思います。

仮目次の完成は最初の山場です。博物館で恐竜の骨を見ると生きているころの姿が想像できますが、仮目次はまさにこの骨格です。資料を読み込んで構成方針をしっかり検討して仮目次ができ上がればあとは肉付け作業です。

できあがった原稿は、必ず新しい目でチェックします。人間は何度見ても同じところを見落とすもので、違う人に見てもらうと誤字脱字が発見できます。非公式なことでしたが、OBの方たちには、資料をいただくだけでなく原稿も見てもらいました。比較的時間のある方が多いので喜んでやってくださいました。できるだけそういう人を巻き込み味方をつくるのも有効です。

原稿がある程度まとまるごとに経営陣に見てもらいました。自分では客観的につくっているつもりでも不安になってくるものです。あとになって異なる意見が出てくるのを防ぐために、とにかくコピーを机に置いて2週間後に「ご意見は」とうかがう。いわばリスクヘッジですね。それに経営陣は会社経験の長い人たちですから貴重な情報ももらえます。

作業が遅れることはあっても予定より早く進むことはまずないので、完成までの時間を十分とることも大事です。当社の場合ほとんど完成したころに、社史で取り上げざるをえないトラブルが発生したり、これはスケジュール的には少し無理があったかもしれませんが、社史発行予定月の3ヶ月前に開催が予定されていた、創立175周年の記念イベントを掲載することにしておりました。その結果やはり2007年12月の完成目標が翌年3月にずれこんでしまいました。当社の場合、最悪でも175周年記念日から一年以内の発行を目指していたので大事には至りませんでしたが、完成時期を記念日等に設定される場合はスケジュール管理が大変重要です。

編纂を終えての感想は…

資料・写真が少なくて苦労しました。1960年から2002年まで年に3回出ていた「社報」に助けられましたね。写真も、かなりの部分は古い「社報」を複写しました。今、英語版を制作中ですが今回の仕事が終わったら、次のための資料蓄積を考えたいと思います。今はデジタルデータにできるので、引き継いでくれる人がいれば大丈夫でしょう。

反省点は、当社事業の主体である国内取引の経緯を詳述できなかったことです。同じ商品でもいろいろなメーカーから仕入れていろいろなお客様に売っているので、共同・競合関係が複雑なためです。社内では「書けなくても仕方がない」と言われますが、私としては残念です。

社史というのは多くの場合、何十年に一度しか作らないので、ほとんどの人が素人です。当社は社内にプロを招きましたが、「135年史」の圧縮をお願いしたり、本つくりの特殊な用語を教えてもらったり、ずいぶん助かりました。もちろん凸版印刷さんも頼りにしていましたし、とにかくプロの指導は必須だと実感しました。

英文社史の状況は…

日本語版社史の配布作業が一段落した2008年5月頃から、英語版作成の作業に着手しました。体裁も含めて、基本的に日本語版を踏襲することにしていましたので、新たな取材等はありません。最初の仕事は翻訳作業でした。翻訳は、当社の英語版年次報告書を作成してくれていた会社に依頼しました。私の主な仕事は、この英文原稿を読んで日本語版との調和を確認することでした。英語版原稿については会社のトップに一々見てもらうことはしませんでした。約半年掛けて翻訳作業が終了すると、再び凸版印刷さんに登場していただきました。日本語を英訳するとページ数が増えると覚悟していましたが、ぴったりと同じページ数にしていただきました。お陰で挿入写真もほぼ同じ位置に入れることができました。制作担当者としては感動しましたね。英語版完成は日本語版から一年以上経過していましたので、社長の特別寄稿の内容を少し改め、資料は一年新しい2008年3月末現在のものを使いました。また、当社海外拠点の社員に読んでもらうことも意識して、各海外拠点の活動状況を追加掲載しました。

英語版は2009年5月に完成、海外取引先、当社海外拠点社員を中心に配布しました。
実は、中国語版の作成も考えたのですが、必要部数とコストがバランスせず、これは断念しました。
次回社史を作るときは間違いなく3ヶ国語での出版になるでしょう。