高砂香料工業株式会社80年史

元高砂香料工業株式会社広報室長 渡辺洋三さんの体験談をうかがいました。

社史担当を任命された時は…

高砂香料は2000年2月に創立80周年を迎えまして、私も編集委員兼事務局長として関わってきました『80年史』が2003年12月にようやく刊行することができました。

私が高砂香料に入社したのが1965年、その5年後の1970年に会社は創立50周年を迎えまして『50年史』が刊行されたのが1973年、いずれも記念式典から発刊までに3年かかっております。

私は入社以来37年間広報室の仕事をやってきまして、そんな関係から『80年史』の編纂委員兼事務局長というようなことを任されました。1999年の経営会議で社長から『80年史』を発刊するという発表があったとき私はまだ現役の広報室長でしたので、とても年史に集中することができませんでした。

私が定年退職しましたのが2002年の9月末です。それからほぼ年史の仕事に専念できるようになりまして仕事が随分はかどるようになってはきましたが、私自身は土日に出勤して原稿を書いたりして退職した後の方が忙しくなってしまいました。それから発刊までの約1年と10ヵ月はいつも『80年史』のことがどこか頭の片隅にありまして、なかなか開放された気分というわけにはいきませんでした。

会社概要をお聞かせください…

創立が1920年、大正9年2月9日、資本金が92億円、売上高単独で575億円、連結で1,800億円、これは2003年3月の数字です。従業員数は単独で1,081名、連結で2,405名、関連会社数が国内10社、海外8社という規模の会社です。

企業理念が「技術立脚の精神に則り社会に貢献する」。事業内容は全くの原料メーカーでして、ちょっと聞き慣れない言葉かもしれませんが、フレーバー、フレグランス、アロマケミカル、ファインケミカルの製造販売を主にやっております。

会社の沿革は…

1920年、大正9年、日本最初の合成香料製造会社として創業、技術者15名と経理部4名ということです。技術者集団で作った会社ということで、先ほどの企業理念もそういうところから出てきております。1927年商工省(現:経済産業省)より工業奨励金を下付、これは1936年までに4回の奨励金を受けております。1929年には日本最初の香料輸出ということで、イギリスにサフロール3tを輸出しております。

少し飛びまして、1960年、大戦後15年くらい経った時ですが、国際化に向けてパリとニューヨークに駐在所を開設しております。私どもくらいの規模の会社でこんなに早くから海外に出張所を設ける例というのは意外と少なくて、それなりに注目もされたものです。1980年、昭和55年に八丁堀と蒲田に分散しておりました本社機構を高輪の方に移転統合いたしました。

1983年には「においの人間に対する影響」ということをテーマで第1回高砂香料シンポジウムを開催しております。このシンポジウムによりまして今盛んに言われております“アロマテラピー”といった匂いの機能性がたいへん注目されるようになってきました。これは以後10回開催しております。

1983年には不斉合成法によるl-メントールの生産を開始しております。この不斉合成法というのは2001年野依先生がノーベル化学賞を受賞されたわけですが、この時に先生のご指導のもとに当社の磐田工場で成功したl-メントールの生産がノーベル賞に一役かったというようなことです。1993年には蒲田にありました総合研究所を平塚に移転しております。

1998年、本社を創業の地、蒲田に移し2000年には創業80周年を迎えました。それから2001年、野依良治社外取締役がノーベル賞を受賞ということですね。これは先ほどちょっと触れました不斉合成法によるl-メントールの成功がその影にあります。野依先生には受賞の3カ月ほど前の6月に社外取締役に就任していただいたばかりの出来事でたいへんな快挙となりました。

編纂体制と経過について…

1992年ごろに『75年史』を発行しようという計画があり、フレーバー、フレグランス、アロマケミカルの各事業を担当されていたそれぞれの旧役員の方に『高砂香料75年のあゆみ』という原稿が依頼されていました。これが後で『80年史』を作る時に役立ったわけですが、この『75年史』というものは結局刊行されませんでした。ちょっと余談になりますが、1995年に創立75周年式典を2月の頭に予定していたのですが、阪神淡路大震災が1月の17日に起こりまして、急遽式典を取りやめて、その経費を赤十字に寄付するという形をとりました。

それから4年後の1999年3月の経営会議におきまして、社長から『80年史』発刊の発表があり、編纂委員兼事務局が総務担当常務を委員長として他3名でスタートいたしました。その時に『80年史』の核となる事項をピックアップしまして、資料原稿を約20件くらいですが社内で執筆依頼しております。このころは兼務でしたので2000年2月には創業80周年記念式典を挙行するなど多忙で、ほとんど年史の方の仕事というのは具体的な動きは特にありませんでした。

ようやく動き出したのはこの後です。総務担当の常務を委員長としまして、それから私の他2名ですね。一人は元研究員で、技術に大変強くて、文章にうるさい男です。したがって校正なんかも非常によく見ることができました。もう一人は経理畑出身で数字に強い者です。私はグラフィックデザインの学校を出てきまして広報の仕事をやっていましたので、レイアウト等には慣れておりまして、何となくうまく3人の役割分担といいますか、それが自然にうまく出来て進めておりました。
凸版印刷に正式発注できたのが2000年の6月です。この時の発行予定が2002年の2月という、これはどういうところから出てきた予定か……このぐらいには出したいという希望的な予定だったのですが、実質にはこれから1年10ヵ月遅れるわけですね。

そんなことがありまして仮目次を十分詰めたあと、2001年4月ころから凸版さんの方にお願いしましたライターさんによる第1稿が出始めまして、編纂委員による検討とかその戻しが何度も凸版さんとの間で繰り返されました。2002年6月のスケジュール表では発行予定が1年遅れとなっておりました。それで2003年1月にようやく通史編の全章、序章から3章の部は写真などを入れてだいぶレイアウトの進んだもの、それから4章から6章は2段組のまだ写真も入っていない文字だけのもの、それから7章にいたっては生の原稿そのままの段階だったのですが、とにかく役員の校閲を得なければ進まないだろうということで、社長と2人の専務、1人の取締役に校閲を得ました。しかし7章については校閲を得た後も修正がどんどんありましてそれの繰り返しをしていました。

この頃から刊行のご挨拶をどうするとか、資料編とかの原稿、および写真の選定が急ピッチになってきました。写真の選定は私が広報室で長年社内報を担当していたものですから、きちんと保管してあったため、わりあい潤沢に使える写真を見つけることができたのは助かりました。それでも見つからないものが何点かありましたけれども…。

そういう状況で他のところは進んでいたのですが、技術編というのはなかなか進まないというのがこの頃の状況でした。2003年6月下旬頃の最終スケジュール表では通史・技術編とも7月末にカンプ校正の役員校閲を終了して、年表、あとがきなど全てのページを製版・色校正・校了までもっていこうと、まだこの時点では10月1日には発刊できるだろうという感じで進めておりました。
発行部数を3,500部でいこうと決まったのが8月の初旬ですからしょせん無理なことでした。
実際に印刷に入ったのは2003年11月の頭頃となります。

80年史の仕様は…

A4判で本文360ページ、内訳は通史編が186ページ、技術編が98ページ、資料編が42ページ、年表30ページという具合です。

表紙にカバーを付けたソフト仕上げでケース入りです。このカバーデザインも私の方でやったんですが、香料という商品の広がりを出してみようと思いまして、横ラインが上に行くに従って細くなっていく、というふうになっています。表紙もこれは全く同じデザインを反転して当社のコーポレートカラーでありますワインレッドで白く抜いています。

通史編の扉もカバーのイメージをそのまま少し変えましてうまく取り込んでいただきました。通史編第1章の左肩のところに四角いアイキャッチャーみたいなものがありますが、あれは当社のマークが正方形なものですからそのイメージを多少残して全編に通しておきたいな、という考えもありましてあそこは正方形のものを持ってきました。

技術編では通史編とレイアウトを変えています。といいますのは、技術編の場合には化学式の図がふんだんに入ってきますので、同じレイアウトではちょっとまずいだろうということで違った感じのレイアウトにしています。

編纂を終えての感想は…

まず第1番目に終って感じましたことは、校正はこわい、ということです。なにげなく見ている時には誤字脱字はよく見つかるものですが、つい一生懸命見ていると見落とす。“上手の手から漏れる”ということになるわけですが、そして一旦漏れてしまいますと“覆水は盆に返らず”という恐ろしい状況になるわけです。
年表の全部通してわずか一文字ですけれど人の名前が間違っていました。これは本当に取り返しがつきません。校正はおそろしいという事例です。

それから編集委員は少なくとも、できれば専任で3人は必要だなと思います。兼任というのはとても駄目ですね、集中できなくて。何かやりながら「この校正を」ということはできれば避けたいと思います。
それから冒頭に申しました創立の記念日が過ぎて3年後に私ども『50年史』と、それから今回の『80年史』を刊行したわけですが、できれば翌年の創立記念日までには出すというのがタイミングとしては一番いいのではないでしょうか。ぜひそのようなスケジュールをおすすめしたいと思います。
それから刊行までには最低3年は必要だと思います。これは原稿をどのように依頼していくかということ、あるいは資料がどの程度あるか、ということにもよるのですが…。ですから創立記念日の1年、あるいは2年前くらいから少しずつ準備をして、創立記念日の翌年に出せるというのが一番いいのではないかと思います。

写真はできるだけ多く入れた方が読み手としては非常に読みやすくなると思います。また、その業界になかった何か、うちだけの年史でしか見られないような資料、というようなものを1点でもつくることができれば、それなりのやりがいというようなものも出てくるかと思います。「世界の香料会社の変遷」がそれですが、これは年を追うにしたがって合併してなくなったり消えてしまう世界の香料会社の変遷をずっと追っているもので、業界の人からは「よくまとめましたね」という言葉をいただいております。