会社史に託す夢 -私的会社史論- 第2回 企業出版物としての会社史 東京大学大学院経済学研究科 教授 武田晴人

社史の可能性

「年史・社史の持っている多様な可能性を学問的な関心という枠に閉じこめることはできない」と第1回のコラムで書きました。その意味を説明するところから始めましょう。

現在日本では年間に200冊前後の社史や年史が刊行されています。そのすべてを、学間的価値の高いものにすべきだという意見は、あまり現実的ではない、というのが第一の理由です。もちろん、「手を抜いていい加減な社史を作っていい」と言っているわけではありません。学問的な検討に耐えうる経営史を編纂するという狙いとは別の目的を考えることができる、年史・社史はもっと幅の広い可能性を持つものだ、と考えるのが私の意見で、これが第二の、そして主な理由です。

社史は、経営史研究の目的に沿った客観的な叙述をしなければならない、と経営の研究者の中には主張する人たちもいます。しかし、それだけではなく、企業の出版物として、あるいは一般的にさまざまな団体・組織の年史について言えば、一種のディスクロージャーの資料として、組織の内と外、あるいは組織内の仕事仲間のコミュニケーションの手段として作られるものです。だから、そこに込められる狙いは、多様なものであっていい。目的や内容について、いろいろな考え方をとりうることを認めたうえで、1冊の本を、しかも歴史の本として編纂することの意味を考える必要があります。

情報の媒介手段

企業の出版物の一つと考えたとき、社史は、そうした一連の出版物の中でどのような役割を担っているのかが問題となります。

会社概要、有価証券の報告書、製品・サービスの広告や説明書、そして最近ではインターネット上で見ることのできるホームページの情報、そんなものの中で、社史はどんな役割を分担しているのか。一般的な答えを捜すのは難しい質問のようです。

ただ、次のことは言えます。他の手段と同じように、社史は「情報」の塊で、これを発信・提供することで、受け手との間にコミュニケーションを図る手段だ、ということです。そうだとすると、社史を媒介にして実現する対話に何を期待するか、ということが考えられなければなりません。

対話といっても、この情報の流通は双方向ではなく、企業からの一方通行で発信されます。しかも、この情報発信は受信者の反応が見えにくいという特徴もあります。このあたりが社史編纂に企業が疑問を抱く最大の理由にもなります。反応が見えにくいというのは、製品の広告であれば、売り上げに直結するような反応が市場から返ってくるのに、当たり前のことですが、良い社史を作ることに同様の効果が期待できないことに良く表れているように思います。

PRとは何か

一方通行で、反応が分からないという特徴をもう少し掘り下げてみる必要があります。製品の広告ではなく、企業広告であれば社史の持つ特徴に近づきます。ただ、この場合も企業イメージをアピールすることで、企業成長につながるような市場での反応を期待しているという点では、製品広告と同様です。

では、何が違うのでしょうか。

違いの一つは、情報の受け手として誰を想定しているかの違いにあります。社史では必ずしも消費者との対話を意図しているわけではありません。「従業員にも読ませたい」というのは、社史編纂の企画の時にはしばしば聞く話ですし、取引先などが頒布の対象になります。広くいえば、「会社の今」を共有している人たちが、対話の先にいます。そして、企画の段階で、その中のどのような人たちを「主として読者として想定するか」が社史の企画では重要なポイントになります。それは、さまざまでありえますから、社史の姿形もさまざまになります。

誰に何をアピールするか、企業出版物は、そうした目的に沿って機能的な分担をしています。株主に対するディスクロージャーもその一つですし、就職戦線にいる学生たちに対する採用情報も、そうした意味でそれぞれ分担した役割を果たします。

すべてが企業のPRだということもできますが、こうした表現を使うときには、PRの意味を明確にしておく必要もあります。「ピーアール」というと、広告や宣伝という日本語が連想され、企業の製品広告のように、営利活動と直結しているイメージが強くなります。しかし、本来この言葉は、誰もが知っているように、PUBLIC RELATIONですから、企業とpublic、つまり一般の人たちとの関係、あるいは社会との関係を広く指す言葉です(政府のPR活動に「公報」という言葉を当てますが、publicは政府という意味の「公」だけを本来意味するものではありません)。

そうだとすれば、企業PRの一環として発行される社史は、「企業の今」を共有する人たちに、何か語りかけるものであれば、十分だということになります。そして、その語りかける何かに即して、企業は無形の財産を得ることになります。社員の会社に対する認識も、社会のそれも、社史の語る自分史を通して新たになるはずです。

未来との対話

しかし、社史を通して実現する対話は、それだけに限りません。未来との対話という側面があるのです。

書物という情報の媒体の持つ特性がここに良く表れています。テレビやラジオ、新聞やパンフレットなどの媒体は、伝えられる情報に即時性や時限性が備わっています。今ほしい情報、今伝えたいことがこれらには詰め込まれており、時間がたてばその情報は陳腐化してしまいます。それだけに、こうした媒体は保存されることもあまり想定されていないのです。インターネット上の情報もそうした性格を持っています。1週間も新しい情報が書き加わらないホームページは、情報源としての価値が下がるとさえいわれる時代です。即時性は、この媒体ではより一層顕著です。

それに対して、書物としての社史には、即時性はありません。どんなに頑張っても、印刷に回す直前の時期の情報をのせるのが精一杯で、それ以上短縮はできないからですし、そうした締め切り間際の情報は、歴史的な検証をすませていないテンタティブな情報になります。

その反面では、書物としての形態を持つために、社史は長い時間生き残り、未来に記録を伝えます。紙に印刷するという形の情報媒体は、今のところ人類が発明した情報媒体の中では、最も安定的に情報を保存する方法のようです。この点では、マイクロフィルムでもかないませんし、最近のCDROMやDVDは、可能性はあっても未検証で不安定です。なによりも、特定の機械を必要としないこと、つまり、マイクロフィルムのリーダーとかパソコンとかを必要としないことは、決定的な利点になります。

一方的な語り口にはなりますが、社史を通して企業は、未来の社会に生きる人たちに、私たちの時代の姿を語りかけることになります。私たちが、さまざまな形で残っている古文書を読むように、そしてそこから豊富な歴史の事実を知ることができるように、未来の人たちに、伝えることができるのがPR手段としての社史の優れた特徴です。

しかし、書物はこうした保存性が良いという特性の反面で、簡単には作り換えられない、書き直せないという問題もあります。ホームページで仮に誤った情報が流れたとしても、-そんなことは滅多にないでしょうが-、それは訂正することができますが、社史ではそうはいかないからです。とくに、10年とか、場合によっては100年とかに一度という周年事業で編纂される社史の場合には、この問題点は際だってきます。

過去との対話

しかし、書き換えられないという欠点は、過去との対話という側面を社史にもたらします。正確には、社史の編纂事業に過去との対話を求めることになります。そして、その対話を通して得られた歴史の姿が社史に結実することになり、今、そして未来の読者に語りかける内容になるからです。

書き換えられないから、できる限り正確を期し、歴史像を再現する必要があります。だれでも歴史の書き手は、そうしたことを願うものです。そして、この願いを実現するためには、いろいろな資料を集め、話を聞き、集めた資料を丹念に読み、資料の空白の部分を推定して補いながら、歴史の叙述を進めます。そこでは、記録を通して、その企業の活動に関わったたくさんの人たちとの対話が必要になります。「なぜ、この時、こういう決断をしたのか」「こういった経営環境をどのように受け止めていたのか」。編纂者の一つ一つの疑問に、資料がすべて応えてくれるわけではありませんが、そうした真摯な対話が、社史の記述を精彩のあるものにし、記録としての確かさを高めていくことになります。

もちろん、これは社史がPRの手段として役に立つということとは別の事柄ですが、そうした対話は、社史の原稿ができあがり、社内で校閲を受けて、正式な原稿としてまとめられていく中で、社内で追体験され、関わった社員に共有されることになります。注意しなければならないのは、このプロセスが、しばしば、現在との対話にすり替えられて歴史をゆがめることがあることです。つまり、編纂者や校閲者が、「上司の顔色をうかがう」ことで、会社の今に都合の良い、あるいは波風の立たない方向に、叙述を書き換えたりすることがあるということです。しかし、そうした短期的な視点は、社史が書き換えられない情報の媒体であることを考えると、「恥を後世にまでさらす」ことになるのです。反対に、この取り組みが真剣に行われれば、それは他では得難い体験として、その企業の資産として批判的な精神と活力のある企業の風土を保証するのではないかと思います。