人類は4,000年以上前から「香り」を楽しんできたといわれ、五感を使った文化のなかでも最も古いものとされています。近年では、日常生活に幸せをもたらす要素として「香り」への関心が高まり、ホテル業界が空間設計に香りを用いたり、店舗では香りを使って顧客の購買動機を高めたりと、さまざまな香りの活用が広がっています。今回は、香りによる新しいコミュニケーション「フレグランス アイデンティティ®」を立ち上げ、企業のブランディングやプロモーション施策のサポートを手がける、森岩麻衣子と藏野捺子のクリエイティブストーリーをご紹介します。

「香り」「体験」「記憶」の、
深いつながりに着目

 森岩は、写真集や絵本、女性誌などの高品位印刷物のプリンティングディレクション業務に長く従事し、現在は企業の各種プロモーション施策のクリエイティブディレクションを行っています。その二つのキャリアで培った知見と、社内外の技術、製造、研究部門とのネットワークを基に、新しいコミュニケーションツールの開発に取り組んでいます。今回取り上げる「フレグランス アイデンティティ®」もその一つ。森岩が、自身のクリエイティブの原点である印刷領域で新しい価値を生み出すことを目指し、香料印刷に着目したのが始まりでした。

 「嗅覚」は記憶を司る海馬※に直接影響を与える感覚器ということから、五感(視・聴・嗅・味・触)のなかで最も記憶の定着や感情の再現につながりやすいといわれています。昔かいだことのある香りと同じ香りを再びかいだとき、当時の思い出や感情が鮮明に思い起こされる……そんな経験がある人も多いでしょう。「プルースト効果」と呼ばれるこの現象に注目し、香りをブランディングや顧客とのより親密な関係づくりに活用できないかというのが「フレグランス アイデンティティ®」の狙いです。森岩はチームメンバーの藏野とともに、コンセプト設計からオリジナルの香りづくり、そして印刷物を中心とした幅広いプロダクト展開を一貫して提供する仕組みを整え、トッパンの新たなサービスとして展開を開始しました。

※海馬とは、記憶を司る器官。あらゆる情報はいったん短期記憶として海馬に保管され、何度も思い出すような情報は海馬で長期記憶に変換される

ミュージアム体験を特別にする
唯一無二の香りを目指して

 現在、「フレグランス アイデンティティ®」を活用したブランディング施策が、京都の学校法人大和(たいわ)学園が運営する「京都・太秦Taiwa Museum(タイワミュージアム)」内で行われています。森岩・藏野と大和学園との出会いは2021年11月。そのとき、同学園では年明け2月に控えたミュージアムのリニューアルオープン準備の真っ只中でした。当社はそのリニューアルにおいて、展示パネルのサイネージ化を担当。もともとはサイネージの制作のみを受注していましたが、営業担当が「フレグランス アイデンティティ®」の可能性を直感し、森岩と藏野に相談したことがきっかけに。「『京都・太秦Taiwa Museum』リニューアルに香りを取り入れることで、来館するお客さまとミュージアムとの出会いを、より印象深い体験にできるのではないか」。その直感を実現すべく、2人はすぐに提案準備にとりかかりました。

大和学園太秦キャンパスの施設内にある「京都・太秦Taiwa Museum(タイワミュージアム)」は、京都の豊かな食文化を広げ、地域の人々が交流できる場をコンセプトにつくられた博物館。日本料理や和菓子の歴史、京都の食を学ぶことができ、2022年2月、日本の教育機関としては初となる、来訪者を五感で楽しませるフォトギャラリーサイネージを新たに導入。大和学園講師陣が魅せる食文化の数々、京都の行事とお決まり料理など、デジタルで京の食文化を楽しめる施設としてリニューアルオープンしました。https://taiwamuseum.kyoto.jp/

 「『Taiwaの香り』をつくるうえで、最上位コンセプトに『和』を掲げる提案をしました。このミュージアムは、地域の人々が集い、学び、交流する場所です。そこでおもてなしの心を表現することで、会話のきっかけやミュージアムへの愛着を育む一つの要素になれば、と考えたのです」と振り返る藏野。コンセプトが決まると、次は具体的な香りの調合が始まります。今回は、まず学園を象徴する藤の花のイメージを香りの軸に据えました。大和学園のメンバーからは「幸せを感じる美味しい香り」「六種の薫物(たきもの)を想起させる四季の香り」との要望が挙がり、それらを考慮しながら、言語化しづらい香りのイメージを丁寧に具現化していきました。

 人によって捉え方が異なる「香り」を、さまざまなメンバーとともに一つの方向性へまとめていくのは至難の業です。「フレグランス アイデンティティ®」のソリューションのなかには、香りのスコアリングシートが用意されています。これは香りの印象を数値化し、感覚を可視化することを目的とした独自のツールで、状況に応じて活用しながら香りを決定していくことも可能です。

調香プレゼンシート

コンセプトに沿った香りを、調香師の元で2方向4種制作。最終的な香りは、藤のイメージを中心に置きながらも、四季の要素をふんだんに盛り込んだ香りに仕上がりました。(上記は調香プレゼンシート)
調香師:匹田愛・渡辺武志(プロモツール株式会社)

スコアリングシート

提案した複数の香りのなかから、どの香りが一番適しているのかを、項目ごとに評価する際に用いるスコアリングシート(書式はトッパンオリジナル)。

繊細な感性ともてなしの心が、
記憶に残る体験を生む

 そうして完成したのは、四季の要素をふんだんに盛り込みつつ、未来への展望を想起させるさわやかさを纏った世界にひとつだけの香り。学園とミュージアムに関するキーワードから練り上げた、Taiwaブランドを象徴する香りとなりました。この「Taiwaの香り」は、ミュージアムを訪れるお客さまに新しい体験を提供するとともに、リニューアル記念のプレゼントとしてつくられたポストカードにも、特殊な加工で仕込まれています。こうしたノベルティの展開は、印刷技術を持つ当社ならでは。香りと体験という2つの記憶が結びつき、時を超えてミュージアムと来館者とをつないでいくことでしょう。

 嗅覚という繊細な感覚を扱うプロジェクトだからこそ、成果品はもちろん、制作過程においても可能な限り丁寧なコミュニケーションを心掛ける。その気配りと手間暇こそが、ブランドの個性や想いを汲んだ「唯一無二の香り」を生み出し、人と記憶をつなぐ秘訣なのかもしれません。

ポストカードのビジュアルは、リニューアルした「京都・太秦Taiwa Museum」のエントランス。ガラスのエントランスの形状に沿って貼られたフィルムをめくると、「Taiwaの香り」が香ります。こちらは、紙に香料を注入し、フィルムで密閉。フィルムを剥がすと香りが広がる「コスメルパック」仕様
イラスト制作(ポストカード):青木宣人

PRODUCT INFORMATION

「Taiwaの香り」(空間芳香・ノベルティ)
学校法人 大和学園(京都府京都市)
プロモーション/2022年

クリエイティブディレクション:森岩麻衣子
アートディレクション:藏野捺子

STAFF’S COMMENTS

クリエイティブディレクター 森岩麻衣子

昔から香りに興味がありました。高校時代は制服の胸ポケットに、お気に入りの香水の小瓶を入れて持ち歩き、気分が落ち込むとコッソリその蓋をあけて香りをかぎ、自分の機嫌を取ってきました。30年経った今でもその香水の香りをかぐと、学校の校舎などを思い出します。香りの効果は自分が実感しています。そこに、我々が得意とするビジュアルづくりと掛け合わせることで、体験がより深く立体的になることは間違いないと考えています。

アートディレクター 藏野捺子

目に見えないのに「想い」や「印象」を共有できる不思議な魅力を持つ香り。企画制作の仕事のなかで培ったアートディレクションの力で、大和学園様が持っている「和」や「藤の花」というアイデンティティを、視覚と嗅覚の両方にアプローチする特別なコミュニケーションに落とし込めたのではないかと感じています。さまざまな可能性を秘めている香りに、色んな期待を込めて、今後の展開を考えられればと思っています。