2021年夏、葛飾北斎の生誕260年を記念した特別展「北斎づくし」が、新型コロナウイルス禍の影響による 1年間の延期を経て開催されました。20歳で浮世絵師としてデビューしてから90歳で没するまでの70年間、森羅万象あらゆるものを描き抜こうと挑戦を続けた、世界で最も有名な日本の絵師・北斎。会場となった六本木の東京ミッドタウン・ホールには、代表作である『北斎漫画』、「冨嶽三十六景」、『富嶽百景』の全頁・全点・全図が一堂に会し、まさに北斎の世界に没入するかのような前代未聞の特別展となりました。今回は、その“づくし”を体感する空間づくりの一翼を超高精細撮影によって担った、宇野恵教の「クリエイティブストーリー」をご紹介します。

迅速な判断力と高いスキルで、貴重な美術作品の撮影に挑む

 フォトグラファー、フォトディレクターとして30年以上のキャリアを持つ宇野は、文化財をはじめとする貴重な資料の撮影ノウハウと、超高精細データ生成技術を強みに、現在はアーカイブ領域を中心に活動しています。「トッパンのフォトグラファーは、何でも撮れるオールラウンダーとして育てられます。初めて撮影するものでも、お客さまや関係者が立ち会われるなか、その場で確実に仕上げなくてはならない。そうした現場経験から、レンズ、絞り、ライティングなど、すべてを即座に判断することが染みついているのです」と語る宇野。経験に裏付けられた技術力と迅速な判断力から、今回の仕事に抜擢されました。

 「生誕260年記念企画 特別展『北斎づくし』」は、“トッパンの印刷技術や美術品のデジタルアーカイブ技術を活用し、新しい展覧会を開催したい”という当社の文化事業推進本部の想いと、世界一の『北斎漫画』コレクタ ー・浦上満さんとの出会いから生まれた企画です。建築家の田根剛さん、ライター・エディターの橋本麻里さん、アートディレクターの祖父江慎さんなど、北斎を敬愛する豪華なメンバーが集結し、2021年7月の開催に向けて2019年より本格始動。宇野の元に展示造作のための撮影依頼が舞い込んだのは、開幕が迫る5月中旬のことでした。その依頼内容とは、『北斎漫画』(天地約23.8×幅 16㎝)の現物を撮影してデータ化し、それを最大4.5mまで拡大して天吊りバナーなどをつくり、会場の壁面・床面を北斎の絵で覆いつくすというもの。宇野が任されたのは、いわば“原稿づくり”。高い精度が求められる超高解像度撮影という依頼でした。

江戸の風俗、職人の作業の様子など、北斎が森羅万象を描いた全 15 編の絵手本 『北斎漫画』十二編 浦上満氏 蔵
(右下には、メインビジュアルのメインモチーフが潜んでいます)

文化財を守りながら、細部まで正確に再現するために

 美術作品をデジタルデータ化する場合、専用のカメラを用いた撮影と、スキャナーを用いた手法があります。今回の『北斎漫画』は、和綴じでノド部分を平らにすることができず、スキャナーではピントが合わせにくいことから、現場で融通の利く撮影を選択。高画素の画像を生成できる専用カメラを用いて撮影が実施されました。

 「再現性を求めるならば、ライティングで強い光を使いたいところですが、美術作品の場合は資料の保全も合わせて考えなければなりません。資料が外に出ている時間をできるだけ短時間に抑えることも、貴重な文化財を守るために必要ですから、撮影時間もかけられません」そう宇野が語るように、世界最高水準の質を誇る貴重な美術作品であることから、撮影方法や現場での取り扱いには細心の注意が払われました。また、撮影現場では条件や状況によってさまざまな判断が求められますが、その判断を的確かつ迅速に下せるかは、まさに経験値が左右します。

 「(『北斎漫画』は)あらかじめセッティングしたスポンジの上にノド部分を挟み、その上からノドが開き過ぎないように注意しながらガラスを降ろして撮影しています。裏写りを防ぐために、ページとページの間には和紙を挟みました。それから、高精細画像の撮影は環境による影響も出やすいので、周囲にも気を遣いますね。スタジオの外を走る車の振動で撮り直すこともありました。紙の質感や木版画独特の線画を再現するため、細部にまで神経を尖らせて丁寧に撮影を行いました」と、宇野はスタジオに籠って撮影に集中しつづけた3日間を振り返ります。

緊張感漂う『北斎漫画』の撮影現場。4億画素という超高精細撮影のため、小さな振動にも気を配る

世の中に貢献できる職人技を、次の世代に受け継いで

 「生誕260年記念企画 特別展『北斎づくし』」で展示された作品は、実際にはどれも大人の手ほどの小さな本です。にもかかわらず、来場者が北斎の世界に没入するかのような体験ができたのは、通常の展覧会では考えられない規模の展示造作の結果です。第1室の『北斎漫画』のコラージュに包まれた大空間、第4室の迫力ある読本の世界……。10~20㎝程の本のなかの図を壁いっぱいに拡大印刷することで、北斎の魅力が爆発し、その画力に圧倒される――まさに“北斎づくし”の空間が完成しました。そしてその画期的な展示の裏側には、現物からデジタル原稿(画像)をつくり、印刷するサイズや素材に合わせて微細な調整を行い、全体としてのまとまりを整えていく、いくつもの職人技が光っていました。

特別展「北斎づくし」より
来場者を『北斎漫画』のコラージュで包まれた大空間で圧倒する、第1室

特別展「北斎づくし」より
メリハリの効いた白黒の迫力ある展示で読本の世界へ引き込む、第4室

 「若い頃は、20名ほどいる社員カメラマンとともに切磋琢磨して、“とにかく上手くなりたい”という気持ちが先行していました。でも今は、会社や社会に恩返しできるような仕事がしたいと思っています。貴重な原稿を撮影する機会をいただき、自分もようやく社会に貢献できるようになったかな」と笑みをこぼす宇野。恩返しという意味では、後輩の育成に対する意識も以前より強くなりました。実は本記事の宇野のプロフィール写真を撮影したのは、撮影経験の少ない若手の後輩。

 「さまざまな仕事を通じて自身が培った技術を、今度は次の世代へとつないでいく……そんな風土は、これからも残していきたいですね」

PRODUCT INFORMATION

生誕260年記念企画
特別展「北斎づくし」
メインビジュアル
(アートディレクション:祖父江慎)

生誕260年記念企画 特別展「北斎づくし」
凸版印刷 文化事業推進本部
超高精細文化財撮影/2021年

フォトグラファー:宇野恵教

※展示造作のプリンティングディレクションを務めた冨永志津のクリエイティブストーリーは、こちら
※「北斎づくし」の詳細はこちら

STAFF’S COMMENTS

フォトグラファー 宇野恵教

高精細カメラで記録された北斎作品が踊りだす、そして会場を埋め尽くす。この企画に関わり、作品の魅力を多くの方にお伝えする一端を担えたことを非常にありがたく感じています。高画素センサーカメラでマルチショット撮影し、4億画素の画像を生成。言葉にすれば簡単ですが、其の実?支えてくれたスタッフのチームワークにも感謝しています。機材や技術の革新とともに、次は何にチャレンジするのか、楽しみでなりません。