TOPPAN 凸版印刷株式会社

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CREATOR’S FILE クリエイターズファイルトップクリエイターに、仕事や考え方について伺います

「育てる」というクリエイティビティ

17 永井一史

HAKUHODO DESIGNの代表取締役社長、クリエイティブディレクターとして活躍する永井一史氏。2004年クリエイター・オブ・ザ・イヤー受賞をはじめ、華々しい実績を持っている。今やブランド・コミュニケーションの第一人者となった永井氏が、どのように自分を、そして自らのクリエイティビティを育ててきたのか、その軌跡を追った。

第1話 「ゼロスタート」

クリエイティブに関する最初の記憶

 自分と世の中の接点を見い出していく時に、親や親の職業といった育った環境というのは大きく影響するものです。僕の場合は父がグラフィックデザイナーでしたから、デザインやクリエイティブというものを意識せざるをえない環境であったことは確かです。
 3、4歳の頃の記憶ですが、父の製図板の上に置いてあったポスターを手で触って、それが印刷物だったのか、原画だったのかはわかりませんが、すごく怒られたことをおぼえています。めったなことでは怒らない人だっただけに、その記憶はとても鮮烈です。

“センスがいい”ということへの抵抗

 とはいえ、小さい頃からデザインに深い興味があったわけではありません。父がデザイナー、母もインテリアや建築関係の仕事をしていたので、家の中に趣味の悪いものは置かないという空気があったのですが、中学の頃はそれに対して、漠然とイヤだなという気持ちがありました。勉強机を買い替える時も、わざとなんでもないグレーの事務机を選んだりして。
 高校3年の受験の直前になって美大を受験しようと決めるまでは、デザインをやってみようという意識は頭の中になかったですね。それもモチベーションを持って美大に行こうと決意したというわけではなく、なんとなくそういう気分になっていった、というのが正直なところです。

衝撃を受けた予備校時代

 美大受験を決めてから近所の予備校に通いはじめて、そこではけっこう評価されていました。それで『これは意外に簡単だな』なんて図に乗っていたんだけど、美大受験で有名な予備校に行ってみたら、もう、すごい人たちがたくさんいて、これは基礎から勉強し直さないといかんと思って、少し…いや、かなり頑張りました。 この予備校時代というのは僕にとってはすごく印象的です。変な人たちがたくさんいて、それが強烈におもしろかった。今、思い返してみても、今までの人生で一番楽しいと思えるぐらいの時期でした。 翌年、多摩美術大学に入学してみたら、おもしろい人もいたけれど予備校ほどじゃありませんでした。今はすごく良い大学になりましたが、当時は授業もそんなにおもしろいとは思えなくて、ほとんどマジメに通っていた記憶はありません。

今、その時の興味に集中する

 大学時代はいろいろなギャラリーに行って展示を見たり、宣伝会議と榎本了壱さんがやっていらした「スーパーアートスクール」に行って、いろいろな人の話を聞いたりしていました。それから、当時、美術評論家の東野芳明さんが多摩美に芸術学科を創設された頃で、意欲的にいろいろな人を招いて講義をされていたんです。そういうものは積極的に聞きに行っていました。
 僕は自分で興味が持てないものに関してはまったく関心がわかないのです。そのかわり、いったん興味を持ったら徹底的に深くのめり込んでいけるタイプだと思います。当時はアートやデザインに対しての興味・関心はかなり深かったと思います。

博報堂入社、デザインを仕事にする

 当時は広告にもそれほど興味はありませんでした。電通や博報堂が何をする会社なのか、受験するまで知らなかったくらい。たまたま大学の推薦枠に入ることができたので受験してみたら、運良く受かってしまった。他にやりたいと思うこともなかったから、そのまま入社したという感じです。
 入社して、大貫卓也さんも在籍されていた宮崎晋さんのチームに配属されました。宮崎チームには比較的若いうちから仕事をまかせてみるという風潮があって、僕も入社半年後でしたが、ひとつの仕事を担当することになりました。文藝春秋社の自社媒体の広告で、縦1/3という小さな雑誌広告です。これがアートディレクションまで担当した初仕事になりました。

広告がわからなかった時代

 それからしばらくして、あるビール会社の新商品の広告キャンペーンの仕事を担当することになりました。入社1年目くらいだった僕にとってはかなり大きな仕事でした。企画をたくさん考えて、お客さんへのプレゼンテーションも自分で行って説明して、採用されることになりました。
 でも、今考えると、その頃は広告というものがよくわかっていなかった。その時代の広告の流れではありましたが、アート的なものを広告のフレームの中に入れ込んで、それが他の人に伝わろうが伝わるまいが関係ないというくらいに乱暴に考えていました。
 でも、広告会社の中で、伝わらなくてもいいとか、なんとなくかっこよければいいみたいなことが通用するはずありません。だんだんと自分のやり方は間違っているのでは…と思いはじめました。
 周囲には優れたクリエイターがたくさんいましたから、そういう人たちの仕事を見ながら、広告ってそうとう深い世界なんだということがだんだんとわかってくるわけです。そこから広告に対する興味もどんどん出てきたという感じでした。
 今となっては笑い話ですけど、大貫さんに自分のアイディアを見せた時に、「これじゃ商品は売れない」みたいなことを言われて「なんで売れる必要があるんですか?」と言い返したことがあります。広告としてきちんと機能することこそが大切なんだということがわかっていなかったのです。
 そういう意味では、僕は何に関しても“ゼロスタート”ですね。デザインやアートに対する意識も、せっかく父がグラフィックデザイナーという環境にいながら高校3年になるまで無関心だったし、博報堂に入ってからも周囲の環境に恵まれていたのに、広告がどういうものなのか、なかなかわからなかった。
 その都度、ひとつひとつ手探りで学びながら、自分を育てていったという感触です。

永井一史
クリエイティブディレクター/アートディレクター
1961年東京生まれ。85年多摩美術大学美術学部デザイン学科卒業後、株式会社博報堂入社。アートディレクター、シニアクリエイティブディレクターを経て、2003年5月、株式会社HAKUHODO DESIGNを設立し、代表取締役社長に就任。主な仕事に、サントリー「伊右衛門」、日産自動車「SHIFT_」、アップルコンピュータ「iPod」、リーガルなど。主な受賞に、1996、97年東京ADC賞、99年JAGDA新人賞、2004年クリエイター・オブ・ザ・イヤー、05年東京ADC賞グランプリなど多数あり。東京ADC会員、JAGDA会員。

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